自伝(加筆中)
『私の歩んで来た道』
富士登山競走10回優勝 芹澤雄二
【幼少期】
1962年3月13日、私は静岡県三島市の病院で誕生しました。実家は、同県の裾野市です。
私に、物心がついた時、ある養護施設に住んでいました。
そこでは、親のいない子や、親の事情で預けられている子がいました。その中の一人が私でした。
小学一年の終わりのある時、お多福風邪をひいて寝ていた時に、お世話をしてくれていた、お姉さんから、あなたには、実は姉と兄、それとお父さんがいるんだよという事を告げられ、びっくりました。
しかも、もうすぐお父さんが、あなたを引き取りに来ると言われ、不安と、うれしさが、込み上げてきたのを覚えています。
しばらくして、親父さんが迎えに来ました。
バスや電車、タクシーを乗り継いで着いた家を見て、本当に驚きました。
昔の古い木造の家で、小の方のトイレは、庭に丸く穴が掘ってありそこでしたり、大の方は、古い馬小屋の一角にある、ぼっとん便所で、紙は新聞紙でした。
庭はジャングルの様で、誰が植えたのか、バナナの木が生えていました。
敷居が高くて、お風呂は石風呂、薪を燃やして入りました。何もかもが、預けられていた施設の方が近代的でした。
【小中学校時代】
小学校2年生から、地元の裾野市立東小学校に転入しました。日が経つにつれて、実家の生活にも慣れていきました。
二つ上の兄に、金魚のフンの様にくっついて行動していました。
小学5年になった時、兄が中学に進学したのを機会に、それまでの金魚のフンみたいな生活に別れを告げて、その頃、あまりクラスでも目立っていませんでしたが、どんどん自分を出して積極的に行動する様になりました。
しかし体が小さかったので、体の大きな同級生に、よくいじめられていました。
3月生まれで体が小さいのと、両親が離婚していて親父しかいなかったのと、家がかなり貧乏だったので、それらが、いじめの原因だった様な気がしますが・・・(子供時代の記憶は大人になって思うとかなり多感だと)
兄貴には、様々な影響を受けました。少年マガジンの広告に載っていた、中国拳法の通信教育を受けてみたり、マラソンの練習に私をいっしょに連れて行ったりと、とにかく体を動かすことが大好きな兄貴でした。
中国拳法は私の性には合わず、私はマガジンに連載されていた、空手バカ一代の極真空手に興味があり通信教育を受けていました。
それから、高校の時には、沼津市内にあった道場に通うようになりました。
この頃は空手をやっていた事もあり、いじめられる事は、全くありませんでした。
一所懸命やったつもりでしたが、色々あって、5級の黄色帯で道場は辞めてしまいました。
先に述べた様に、家が貧乏だったので、中学2年の時から、新聞配達を始めました。
兄貴は、小学6年の時からやっていましたが、私は、犬に吠えられたり、追いかけられるのが嫌で、中々、踏ん切りがつかなかったのですが、兄貴がバイトしたお金で、自分の好きな物を買っているのを見ていたので、一大決心をして始めました。
その時、私はひとつの思いを持ちました。
新聞配達をする、一番の目的は、自分でお金を稼ぐ事でしたが、それだけでは、長く続ける為には、何かが足りませんでした。
そして私が考えた結論は、なるべく新聞を配る時に自転車をあまり使わずに、走る事を意識して、長距離も速くなってやろうと思ったのです。
しかし、中学時代には、中々その成果は出ませんでした・・・(-_-;)
【高校時代】
高校に入って新聞配達の地域を、新聞店に拡大して頂き、朝刊と夕刊をかなり配る様になって、みるみるうちに、走力が付いてくるのがわかりました。
高校3年の時にクラスで1番1500mの持久走が早くなり、体育祭の1500m走で2番、そして学校周辺の交通事情で長年中止になっていた、全校マラソンが、学校から離れた、沼津市の千本浜海岸で、男子20kmの距離で、高3の1月に開催されることになりました。
その時に、高校3年間、担任をして頂いた山田先生が、私に、「芹澤、おまえは、このクラスで1番持久走が速いのだから、今度の20kmマラソンで優勝を狙ってみたらどうだ」と言われました。
しかし冷静になって考えてみると、1年から3年まで、全員で走るマラソンに勝つ為には、新聞配達の練習だけでは不足を感じました。
私は朝晩、新聞を配っていた関係で、放課後の部活動をしていなかったので、部活をしている陸上部、サッカー部の選手に勝つには、練習時間も距離も足りないと感じたのです。
そこで私が考えたのが、通学ランニングでした。
当時、私立三島高校まで、自宅から片道6kを自転車で通っていました。
往復で12kmこれを走れば、かなりの練習になります。
しかし、その考えには、無理がありました。学生服と学生カバンです。
この2つを何とかしないと、走る事が難しいなと思ったのです。
すると思わぬ助っ人が現れました!!同じクラスの植松君でした。
彼も学校まで自転車で通学していて、家も近くにあったのです。
「雄二が本当に走って学校に行くなら、カバンと服は、俺が持って行ってやる」と言ってくれたのです。
それから私は、朝刊を配ると朝食を食べて、彼との待ち合わせ場所に行き荷物を預けると、ランシャツ、ランパンの身軽な格好で学校に走って行きました。
しかし、その後何日か続けていると、思わぬ障害が出てきたのです。
当時、私はクラスのホームルーム委員をやっていました。その事でクラスメートの何人かが、委員ともあろう者が、校則で決まっている制服を来てこずに、マラソンランナーのような格好で来るとは、何事かと騒ぎ始めたのです。
そんな意見は知らんぷりして続けていると、一部の先生からも嫌味を言われました。
しかし、担任の山田先生は何も言わずに見守っていてくれたのが救いでした。
植松君にも迷惑が、かかっているのも氣になりましたが、とにかく全校マラソンで勝ちたい思いが強くて、走り続けました。
年が明けて、1月20日位に、いよいよ本番、当日は直接、沼津の千本浜海岸集合でした。
朝9時から10時位のスタートだった様な気がします。
スタートの時、とにかく1番を取りたかったので、先頭に並びました。
自信と不安が入り混じっていましたが、スタートしてしまえば、もう只ひたすら1番めざして走って行きました。
途中、何度か苦しい時間帯もありましたが、その度、自分が1番練習したんだという強い思いで乗り越える事ができました。
トップでゴールした時、涙が出てくると思っていたのが、うれしくて笑顔しか出ませんでした。
ゴールした後、体調不良で見学していたクラスメートが、「芹澤が1番でゴールしたのを見て涙がでそうになった」と聞いて、それが本当にうれしかったのを覚えています。
それからマラソンスタイルで登校するのを批判していたクラスメートのうちの何人かが認めてくれたのもよかったと思います。
この時の経験が、今の私を支えています。
【社会人編その1】
高校を卒業して、国鉄の静岡鉄道管理局に就職しました。営業の方の仕事が長くて、一昼夜勤務が、ほとんどでした。朝8時から翌朝8時までの時間、駅で仕事をしていました。
その日の明け番や、公休を使って、マラソン練習は続けていました。
あの頃、日本マラソン界のトップランナーは瀬古さんでした。ものすごく、あこがれていて、出場する大会は、必ず録画していました。特にボストンマラソンで、ビル・ロジャースの大会記録を1秒更新して、2時間9分26秒で優勝したビデオは何回も見ました。
ロサンゼルス五輪も、必ず勝つと思って、応援していましたが、ポルトガルの37歳の、カルロス・ロペスが勝ち、瀬古さんは、14位、とても残念でした。
そんな時代でした。私は何か走る事でトップを目指したいと思っていましたが、いきなり、自己流で走ってきた私が、福岡国際マラソンで勝つのには無理がありました。
そんな時、本屋で見つけた市民ランナー向けの雑誌のランナーズを読んでいると、日本一過酷なレース「富士登山競走」という文字が、目に入ってきました。
山頂コースと五合目コースがあり、山頂コースは富士吉田市役所をスタートして、富士山頂ゴールの距離が、21kmで標高差が、約3千m。これを読んで、これだこの大会で勝つ事ができれば、日本一だ。絶対勝つという氣持ちが湧いてきました。
しかし当時、私は満18歳。山頂コースの参加資格は、満19歳以上45歳未満でした。五合目コースは出場できたのですが、どうせ挑戦するなら山頂コースだと思いました。
とにかく1年練習を積んで来年挑戦する事に決めました。
その頃の私の走力は、10kで35分15秒。フルマラソンは、河口湖マラソンで初挑戦。腹痛で苦しみながら、2時間45分54秒でした。
1981年7月25日、いよいよ第34回富士登山競走に初めて出場しました。富士吉田市役所をスタートして、7k位はアスファルト道路を走り、当時中野茶屋から4kは砂利道を走り、それから馬返しに入り、土の道を走って行くと、大きな溶岩砂利道や岩場が数ヶ所あって、やがて五合目の佐藤小屋に到着。そこから約6kを富士山頂に向けて、溶岩砂利の道、岩場が続く、酸素が少なくなってきて、手はむくむし、目の前は黄色くなり、頭痛もしてきます。苦しみながら、やっと山頂ゴールに着くと、3時間21分台で、32位でした。
1番でゴールしたのは、ノルディックスキー(距離スキー)のトップ選手の、上原子選手でした。タイムは、2時間55分11秒でした。
これなら、しっかり練習すれば、必ず優勝できるのではないかと思いました。
しかし、それから貧血なってしまい、中々32位より上の順位に上がる事ができませんでした。
4回目の挑戦の第37回大会で13位。
やっと貧血を治して上の順位になる事ができました。
その時、優勝したのが、前日、同じ民宿に泊まっていた北村泰一さんでした。
彼は41歳で、この大会6年振り2度めの優勝でした。私のこの大会の前日の宿泊は、いつも民宿、和楽(わらく)でした。
この宿には、富士登山競走に出場する常連の人達がいました。
その中で、一番尊敬されていたのが、優勝か、必ず10番以内に入る北村さんでした。私も北村さんから、沢山の事を学びました。
13位、3時間7分台。翌年は必ず優勝しようと思っていましたが、また貧血になり時間内(4時間半)完走ができませんでした。
この時の38回大会では、すごい記録がでました。
それまで、この大会の記録は、武井農(たけいあつし)さんの2時間44分23秒でした。
第19回大会の記録で、その後誰が挑戦しても破ることができなかったのです。
その記録が、佐々木一成さんというノルディックの選手に破られたのです。
2時間39分30秒、2位の千野香さんが、2時間48分20秒ですから、正に、ぶっち切りの優勝でした。
ところが彼は、スタート前の、ゼッケンコール(スタート前に、ゼッケンにスタンプを押してもらい役員に参加する事を認めてもらう事)を受けていなかった為、失格になり、この記録も幻の大会記録となり、参考記録にも残されませんでした。(しかし、この年のランナーズ10月号には写真とタイムが載っていました。) 結局、この大会では、千野さんが繰り上げ優勝になりました。
ですから、佐々木選手は、翌年の第39回大会は、特別な思いで参加して来たのではないかと思います。
もちろん彼が優勝候補ナンバー1でした。
その年、1986年私は虎年の年男でした。
今年は、絶対にいける、そんな感じが、心の中にありました。
丁度この年、国鉄からの出向で、ユニオン化成という会社に職場が変わりました。
約10ヶ月間でしたが、この事が富士山で勝つには、プラスに働くことになったのです。
まず第一に、前の職場の国鉄での一昼夜勤務と違って日勤職場だった事、これにより、朝と晩、仕事の前と後の2回練習が可能になった事、第二に、残業で時々出勤しなければならなかったのですが、基本的に土、日が休みだった事、この事で、今までの様に他人に氣がねする事なく、大会に出場したり、走り込みができる事でした。
そして、もう一つ名古屋に居た兄貴夫婦が静岡の実家に帰って来た事、特に兄貴の嫁さんの、なーちゃんが食事を作ってくれる様になったのが最高の力になりました。
6度目の挑戦、貧血を治し、勝つ為に何が必要か、しっかり考えました、そこで考え付いたのが、実際のレースコースを走る事でした、それまで過去、大会前に何度かコース練習をした事はありましたが、好結果に結び付かなかった為、13位になった時も、富士山での練習は、ほとんどしてきませんでした、少し自分の中で避けていました。
しかし、冷静に考えてみると、富士山の競走で、一番きついのは、3776メートルという高さによる酸素不足、頂上では、平地の酸素の3分の2になってしまう為、運動能力が極端に落ちることでした。これを克服する為には慣れる事、つまり富士山でトレーニングする事以外にないと思ったのです。幸い今の職場は、土、日が休みだったので、それを利用して、現地練習を始めました。
当時、車の免許を持っていなかったので、250ccのバイクで(バイクの中型免許は持っていた。)、静岡県裾野市の実家から、コース途中の中野茶屋まで、片道50kを運転して、それから走るスタイルに着替えて山頂をめざしました。
5月のゴールデンウィークから始めたのですが、最初は雪が多くて、五合目まで登りました。
次の週になると、段々雪が解けて六合目まで登り、そうしているうちに、大体6月の終わりになる頃、山頂まで到達する事が、できました。
この年は、梅雨明けが遅くて、よく雨に降られました。
バイクで現地に行くまでに濡れて、着替えて走って濡れて、また風邪をひくとまずいので、また着替えてバイクで帰る時に濡れて、何度か氣持ちが折れそうになった時、高校時代の全校マラソンで優勝した時を思い出しました。
あの時、色々な障害が出てきた時、とにかく負けずに、やり通したおかげで勝てた。今もとにかく、こんな苦難に負けずに自分のきめた事を最後まで、やり通す事と肝に命じました。
何度も、富士山で練習していくうちに、少しづつ自分の中に自信が湧いてきました。
中野茶屋から山頂までのタイムが、走る度に縮まっていったからです。大会記録は俺が絶対つくる、そこまで氣持ちは大きくなっていました。
そして、いよいよ大会前日、いつもの宿、民宿和楽での事、前に言った様に、この宿は、毎年常連の人達が泊まるのが、ほとんどでしたが、少しだけ初めての参加者も泊まるので、夕食の時に、一人一人が、自己紹介と、今回の大会に対する豊富を述べていきました。その時私は、あの北村さんのとなりに座っていました。北村さんが、自己紹介と豊富を述べると、みんな、実績のある方の話なので関心を持って聞いていました。
次が私の番でした。その時私は、過去5年間言った事もない事を、みんなに言いました。
「明日は必ず優勝します。できれば2時間20分代で、少なくとも大会記録は出します。」と言う様な事を言ったのです。
常連の人達も、初めて参加する人達もびっくりしていました。
その後に、みんなが大笑いです、無理もありません。
それまでの私の実績は、3時間7分代で13位が最高、ましてとなりの北村さんが言うのならわかるけどという雰囲氣が、わかりました。しかし私はその笑っている人達に「本気です。俺はそれだけの練習をして来ました。」と大口をたたいてしまいました。
その夜、寝ようとしても、全く眠れませんでした。
しかし氣力は充実していました。
朝飯を食べ、北村さんとスタート地点の富士吉田市役所に向かって歩いている時に、北村さんが、アドバイスをしてくれました。
芹澤くんが、もし本当に優勝をめざしているのなら、佐々木をマークしておけ。『奴は俺達ランナーと違って、スキーの選手だから独特な走り方をする』と言う事でした。
私のゼッケンナンバー27番は、私にとって本当にラッキーナンバーとなりました。
【社会人編その2】へ続く・・・・
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