2013年9月14日土曜日

富士山への道

 1986年、この年は寅年で私は3月で24歳の年男でした、いつもの年と違う、何かとてつもなくよい年になる、そんな予感を感じていました。
 
 

 私の頭の中には、常に富士登山競走のことがありました。

 どうすれば、この大会で1位がとれるのかを真剣に考えていました、そしてたどり着いた答えが、まず第一に、長年苦しんできた貧血を治すこと、第二に最低でも10kmロードレースで32~33分の走力を身に付けることでした。

 この目標を達成するため貧血を治しながら、必死に練習しました、その結果、4月に行われた地元開催の裾野高原マラソンの10kmで33分57秒で4位になり、少し自信になりました、なぜならこのコースは標高が高くアップダウンがかなりあるからです。

続く

 

2013年8月16日金曜日

富士山への道

  様々な話が飛び交う中、ハッキリした事が、ひとつ分かりました、それは、その選手が失格になった理由でした。

 当時の富士登山競走では、スタート前にゼッケンコールが行われていて、出走する前にゼッケンに主催者のスタンプを押してもらってから、スタート地点に並ぶ事になっていたのですが、その失格になった選手は、スタンプを押してもらわずに、スタートしたとの事でした。

 あと、どうもその選手はノルディックスキーの選手らしいと云う事でした。

 ようやくその選手の事が、大会から約1ヶ月経った頃に発行された月間ランナーズ10月号に載りました。

 私の記憶で、小さなゴール写真でしたが青空のなか、異常に太い腿が印象的に残っています。

 そして、その写真の下にコメントが載っていました、「せっかくの大会新記録2時間39分30秒、佐々木一成選手」

 びっくりしました、あの武井さんの大会記録を約5分短縮していたのです。

 何度も、何度もそのページを見ました、何度も見ているうちに、絶対に、この佐々木選手に勝ちたい、そして私も大会新記録を出して富士登山競走で優勝したいという気になったのです。

 続く

2013年8月6日火曜日

富士山への道

 第38回富士登山競走、この大会は色んなことが起きたので、すごく印象に残っています。

 まずは、私の成績はというと、前年13位になり今年こそ優勝するぞと気持ちの面では、かなり強いものをもって望んだのですが、7合目位から体に力が入らなくなり、八合目の山小屋の元祖室でリタイアしてしまったのでした。 

 不振の原因は、また貧血になってしまったからでした、本当に悔しくて、家に帰って泣きました。

 この大会の優勝者は、千野香(ちのかおる)さんでした、タイムは2時間48分20秒でした、ところが、あとで情報が入ってきて、その千野さんより、かなり速くゴールした選手がいたのに、その人は失格になったというのです。

 しかも、その選手が出したタイムは、過去誰が挑戦しても破れなかった武井農(たけいあつし)さんの大会記録2時間44分23秒をかなり上回っていたというのです。

 続く






 

2013年8月5日月曜日

富士山への道

 第37回富士登山競走、長年苦しんでいた、貧血が改善されて、望んだ大会でした、富士山での練習は殆どせずに、ホームコースの箱根山の外輪山である、伊豆佐野の山で練習を積んで臨みました。

 この大会で、やっと初参加の時のゴールタイムを更新する、3時間7分台で13位になれました、うれしかったですね、貧血を治せばまだまだいけると思いました。

 この時、優勝をかざったのが、北村さんでした、タイムは2時間50分6秒で2度目の優勝、しかもこの時41歳最年長の記録です。

 来年は私が必ず勝つ、表彰式の北村さんを見てそう思いました。

 
 続く

2013年8月4日日曜日

富士山への道

 北村さんは、いつも上位に入っていたので、いち早く富士山頂から下山していて、民宿和楽で風呂に入って汗を流して、表彰式が始まるまで、時間があるので仮眠をしているのを、私はよく見ていました。

 その姿を見て、本当にこの人は、富士登山競走そのものだなと、何度か感じたのを覚えています。「カッコよかった」

 表彰式が市役所で行われるので、見に行きました、優勝した上原子選手が、もの凄く輝いていましたが、それにもまして、私がびっくりしたのが、優勝者には、内閣総理大臣の大きな賞状とトロフィーが貰えることでした。

 何としてでも、あの賞状を貰いたいなと、心に刻みました。


 しかし、それから1984年の37回大会までは、貧血になってしまったこともあり、よい成績を収めることができませんでした、苦しく長い時期でした。

 
 続く

2013年7月19日金曜日

富士山への道

 6合目、7合目と登って行くうちに、頭が痛くなってきました、高山病です、手がむくみ、周りの景色が黄色く見えたのを思い出します。

 しかし、まだその症状に打ち勝つ、気力があったので、必死になって、頂上を目指しました、7合目からは、溶岩の岩場も多く、急なところは、四つん這いになって登りました。

 やっとの事で、山頂に辿り着きました、いったい自分は何番だったのか?下山して、市役所に着くまで分かりませんでしたが、勝手に、もしかしていい順番じゃないかと思っていました。

 結果は3時間21分台で32位でした、とても残念でしたが、これはもっとがんばればいけるんじゃあないかと思う気持ちもありました。

 北村さんは、やはり10番以内に入っていたと記憶しています。

 優勝は上原子義男(かみはらこよしお)さんで、東京美装所属のノルディックスキー選手でした、タイムは2時間55分11秒でした。

 続く


2013年7月15日月曜日

富士山への道

  寝たのか、寝れなかったのか、よくわからないうちに、やっと朝が来て、5時半位に朝食を食べて、午前7時30分スタート地点になる富士吉田市役所に向かって、宿から約2kmを軽い荷物を持って、6時過ぎくらいに出て歩いて行きました。

 スタート地点の市役所に着くと、もうかなりの人達が集まっていて、それを見て、いよいよ始まるんだなという気になりました、スタート前のゼッケンコールを受けてゼッケンにスタンプを押してもらい、少しアップランをしてから、5合目に運んでもらえる、荷物を預けました。

 スタート地点に着いた時なるべく前に並びました、気持ちの中では優勝を狙っていたからです。

 7時30分、号砲とともに走り出しました、はやる気持ちを抑えるのに必死でした、五合目からが、本当の勝負だと自分に言い聞かせました。

 中ノ茶屋までのアスファルト道路の7kmが結構暑くて、とても長く感じました、ここで初めての給水所があり、汗がだらだらだったので、水を飲みました、そこから馬返しまでの約4kmは当時細かい溶岩砂利道でした。

 そこを、我慢して走っていくとやっと馬返しに到着、ここが2つ目の給水ポイント、しっかり水を飲み、そこから五合目までの4kmは土の道や砂礫の道、岩場があったりと最も変化のある道です。

 へろへろになって、やっと五合目に到着、ここにも給水所があったので水をしっかり飲み、飴とかがあったので、口に入れ、いよいよ富士山頂目指して登って行きました、上に行くにしたがって、かなり前を行く選手を抜いて行きました。

 続く

2013年7月14日日曜日

富士山への道

  その夜、なかなか眠れませんでした、かなり緊張していました、多分まだ富士山を走る力が足りなかったのに、気持ちだけは、「明日は、勝つ」という強い意志を持っていたからです。

 朝が本当に待ちどうしかったのを憶えています。

 続く

2013年7月13日土曜日

富士山への道

  やがて、その日はやってきた、1981年7月25日第34回富士登山競走である。

 前日に、大会主催者が斡旋してくれた、民宿「和楽」に1泊することにしまし、この宿に泊まった事が、その後の私の富士登山競走制覇に好影響をあたえたのは確かです。

 その理由は、この宿に、歴代優勝者の1人の北村泰一(きたむらたいち)さんが毎年泊まっていたからでした。
 
 31回大会に優勝していた北村さんは、それ以外の年も必ず10番以内に入っているという、抜群の強さと安定感をもっていました。

 ですから、この宿に泊まる他の選手からも尊敬されていて、みんな夕食の時に、北村さんの話を聞いて、翌日の大会で完走するための、秘訣を少しでも教えてもらおうと必死でした。

 私といえば、まだ富士登山競走の苛酷さも知らず、明日はやってやるぞという、自信が湧いてきたの、おぼえています。

 続く

2013年7月10日水曜日

富士山への道

  高校を卒業して、国鉄の静岡鉄道管理局に就職しました、沼津駅に配属されて、職種は貨物列車の連結手で、朝8時位から、翌朝の8時までの一昼夜勤務でした。

 走る事が、大好きで、よく鉄道用の足袋をはいたまま、仕事のあいまに、駅構内を走り回って、上司に怒られたものでした、あとスーパーマンになったつもりで、沼津駅発の御殿場線とよく競走したのを思い出します。

 休みの時などは、箱根山の外輪山の伊豆佐野の山に走りに行きました、その様な練習で、翌年の富士登山競走出場に備えました。

 当時の走力は10kmで、未公認ですが、35分15秒、11月23日の河口湖マラソンで初フルマラソンを完走、確か2時間45分54秒で45位でした。

 続く

2013年6月29日土曜日

富士山への道

 その後、参加要項を読み進めていくと、この大会には、山頂コースの富士吉田市役所をスタートして、富士山頂ゴールの21km(当時は19kmになってた記憶があります。)と、五合目コースの富士吉田市役所をスタートして、五合目がゴールの15kmの2つの部門がある事がわかりました。

 どうせ参加するなら、山頂コースだと思いました。

 ところが、山頂コースは参加資格のなかに、満19歳以上44歳未満というものがありました、私は3月生まれで、この時まだ18歳でしたから参加できないことが解り、かなり残念な想いをしました。

 よし、それなら、1年間自分なりの練習をして、来年必ず参加するぞと決意しました。

 続く

2013年6月17日月曜日

富士山への道

 富士登山競走、そんな大会が、私の知らないところで毎年7月25日に、山梨県富士吉田市で開催されていたんだと驚きました。                                                                                                    その大会の詳しい参加要項を読みながら、体中が燃える様に熱くなってくるのがわかりました。                                                             これだ、この大会こそが、私が求めていた大会なのだと思いました。                                                                             続く

2013年6月14日金曜日

富士山への道

 まだ、その頃1980年のランナーズには、全国のマラソン大会も今ほど、多くなかった事もあって、限られた個性の強い大会が掲載されていた様に思います。                                                                                 その中で、私の目をくぎ付けにした文面こそが、「日本一苛酷なレース、富士登山競走」でした。


 続く

2013年6月10日月曜日

富士山への道

  高校を卒業して、国鉄の静岡鉄道管理局に就職しました。勤務は朝8時位から、翌朝の8時までの一昼夜勤務でした。                                                                                                         就職しても、マラソン練習は、仕事の合間を見て続けていました、高校の時の経験で努力すれば必ず報われるスポーツだと身をもって知っていたからです。                                                                                   走る事で、とにかく有名に成りたかった、そんな時、本屋さんで見つけた雑誌が、ランナーズでした。                                                                                                                     続く

2013年6月5日水曜日

富士山への道

  マラソン大会が終わり、何日か経った時の事でした、学校のある授業を、受けていた時、その授業の担当の先生が、私に、芹澤は、このあいだあったマラソンに勝って喜んでいる様だが、あの20KMは、実は距離が短かかったんだよと言われた。                                                                    
 この先生は、私が通学ランニングをしていた時に、嫌味を言ってきた人だったので、よほど私が勝ったのが、おもしろくなかったのだろう。                                                                                              しかし、クラスメートの誰一人その先生の言葉に、同調する者はいなかった、それがうれしかった、私も反論はしませんでした、男子みんなが同じ距離を走ったんだから何の問題もないから。                                                              続く

2013年6月2日日曜日

富士山への道

 折り返しの、10KM地点までは、1月20日位の日にちだったので、気合を入れて、ランシャツ、ランパンで走ったところ、少し体が寒かったが、比較的楽に走れました。                                                                              そこから、残り10KMが、長かった、何度かキツイ時が訪れたが、その度、クラスメートの批判を、思い出して、ここで負けたら、今までやってきた努力が無駄になってしまうと、自らを勇気づけて乗り越えました。                                                                                                             走りながら、もしトップでゴールしたら、男泣きしてやろうと、考えていました、やがてその時はやって来ました。                                                                                                               ゴールにいる人達が見えてきたので、最後の力を振り絞り全力でフィニシュ、涙が出てくるはずが、うれしくてニコニコしていました。                                                                                                 今までの全ての努力が報われた瞬間でした。                                                                                           ゴールした後、体調不良で、見学していた、クラスメートの五十嵐君から、芹澤がトップで入ってくるのを見て、涙が出そうになったと聞いて、本当にうれしかったのを思いだします。                                                                      この時の経験がその後の私の人生の大きな宝になっています、必死に努力すれば必ず報われると言う事が。                                                                                                              続く                                        

2013年5月28日火曜日

 いよいよ、その日がやって来た、1年から3年まで数百人いたろう、自信があった私は、一番先頭に並び、いつスタートの合図が鳴るのか待ち遠しかった。                                                                                     やがて号砲が鳴りスタート、最初から、めいっぱい飛ばした、いつの間にか、周りに誰もいなくなり、一人旅になった、先生が一人、軽トラックで、先導してくれたが、排気ガスが少し気になった。                                                             時々、その先生が、車から降りて写真を撮ってくれたり、声援を送ってくれたのを思い出します。                                                             続く 

2013年5月16日木曜日

 5月14日に、義理の母が、85歳で亡くなりました。  本当に私に対して気を遣って下さった人で、心から、ありがとうございましたと、言いたいです。 今年の富士登山競走、がんばるんで、見守って下さい。

2013年5月11日土曜日

お久しぶりです。芹澤です、今日からまたブログを書き始めようと思います。