2017年10月13日金曜日


そして、大事な寝る前の、イメージトレーニングを何度もしました。 コースは頭の中に入っていたので、ここでがんばって一位になるところを、ある程度決めていて、後は死に物狂いで、ゴールまで走りトップで優勝のゴールテープを切って、六年間の苦労を思い出して泣くんだというものでした。 
 
続く                                                     

2017年5月18日木曜日

 富士登山競走まで、まだ約3カ月あります、これからの練習をどうするかが、とても重要な事でした。
 私には、コーチもいなかったから、すべて自分自身で決めなければなりませんでした、でもそれって、他人任せにならないから、本当に自分にとって大切な経験になるんです。
 日頃の練習は標高差300メートルの山を走り、スピード練習は通勤ランの帰りに、信号が赤になるまで、ぶっ飛ばして走る、変則インターバルでした、横を走っている車に負けてたまるかって気で走りました。
 そして、週末の休みに、富士山に行き、登山競走のコースを走りました。
 私の人生の中で一番必死に練習した時でした、絶対に自分を変えてやろうと思っていました。
 そんな練習を続けているうち、自分が少しづつ精神的にも、肉体的にも強くなっていくのが実感できました。
                        

2013年9月14日土曜日

富士山への道

 1986年、この年は寅年で私は3月で24歳の年男でした、いつもの年と違う、何かとてつもなくよい年になる、そんな予感を感じていました。
 
 

 私の頭の中には、常に富士登山競走のことがありました。

 どうすれば、この大会で1位がとれるのかを真剣に考えていました、そしてたどり着いた答えが、まず第一に、長年苦しんできた貧血を治すこと、第二に最低でも10kmロードレースで32~33分の走力を身に付けることでした。

 この目標を達成するため貧血を治しながら、必死に練習しました、その結果、4月に行われた地元開催の裾野高原マラソンの10kmで33分57秒で4位になり、少し自信になりました、なぜならこのコースは標高が高くアップダウンがかなりあるからです。

続く

 

2013年8月16日金曜日

富士山への道

  様々な話が飛び交う中、ハッキリした事が、ひとつ分かりました、それは、その選手が失格になった理由でした。

 当時の富士登山競走では、スタート前にゼッケンコールが行われていて、出走する前にゼッケンに主催者のスタンプを押してもらってから、スタート地点に並ぶ事になっていたのですが、その失格になった選手は、スタンプを押してもらわずに、スタートしたとの事でした。

 あと、どうもその選手はノルディックスキーの選手らしいと云う事でした。

 ようやくその選手の事が、大会から約1ヶ月経った頃に発行された月間ランナーズ10月号に載りました。

 私の記憶で、小さなゴール写真でしたが青空のなか、異常に太い腿が印象的に残っています。

 そして、その写真の下にコメントが載っていました、「せっかくの大会新記録2時間39分30秒、佐々木一成選手」

 びっくりしました、あの武井さんの大会記録を約5分短縮していたのです。

 何度も、何度もそのページを見ました、何度も見ているうちに、絶対に、この佐々木選手に勝ちたい、そして私も大会新記録を出して富士登山競走で優勝したいという気になったのです。

 続く