2013年7月19日金曜日

富士山への道

 6合目、7合目と登って行くうちに、頭が痛くなってきました、高山病です、手がむくみ、周りの景色が黄色く見えたのを思い出します。

 しかし、まだその症状に打ち勝つ、気力があったので、必死になって、頂上を目指しました、7合目からは、溶岩の岩場も多く、急なところは、四つん這いになって登りました。

 やっとの事で、山頂に辿り着きました、いったい自分は何番だったのか?下山して、市役所に着くまで分かりませんでしたが、勝手に、もしかしていい順番じゃないかと思っていました。

 結果は3時間21分台で32位でした、とても残念でしたが、これはもっとがんばればいけるんじゃあないかと思う気持ちもありました。

 北村さんは、やはり10番以内に入っていたと記憶しています。

 優勝は上原子義男(かみはらこよしお)さんで、東京美装所属のノルディックスキー選手でした、タイムは2時間55分11秒でした。

 続く


2013年7月15日月曜日

富士山への道

  寝たのか、寝れなかったのか、よくわからないうちに、やっと朝が来て、5時半位に朝食を食べて、午前7時30分スタート地点になる富士吉田市役所に向かって、宿から約2kmを軽い荷物を持って、6時過ぎくらいに出て歩いて行きました。

 スタート地点の市役所に着くと、もうかなりの人達が集まっていて、それを見て、いよいよ始まるんだなという気になりました、スタート前のゼッケンコールを受けてゼッケンにスタンプを押してもらい、少しアップランをしてから、5合目に運んでもらえる、荷物を預けました。

 スタート地点に着いた時なるべく前に並びました、気持ちの中では優勝を狙っていたからです。

 7時30分、号砲とともに走り出しました、はやる気持ちを抑えるのに必死でした、五合目からが、本当の勝負だと自分に言い聞かせました。

 中ノ茶屋までのアスファルト道路の7kmが結構暑くて、とても長く感じました、ここで初めての給水所があり、汗がだらだらだったので、水を飲みました、そこから馬返しまでの約4kmは当時細かい溶岩砂利道でした。

 そこを、我慢して走っていくとやっと馬返しに到着、ここが2つ目の給水ポイント、しっかり水を飲み、そこから五合目までの4kmは土の道や砂礫の道、岩場があったりと最も変化のある道です。

 へろへろになって、やっと五合目に到着、ここにも給水所があったので水をしっかり飲み、飴とかがあったので、口に入れ、いよいよ富士山頂目指して登って行きました、上に行くにしたがって、かなり前を行く選手を抜いて行きました。

 続く

2013年7月14日日曜日

富士山への道

  その夜、なかなか眠れませんでした、かなり緊張していました、多分まだ富士山を走る力が足りなかったのに、気持ちだけは、「明日は、勝つ」という強い意志を持っていたからです。

 朝が本当に待ちどうしかったのを憶えています。

 続く

2013年7月13日土曜日

富士山への道

  やがて、その日はやってきた、1981年7月25日第34回富士登山競走である。

 前日に、大会主催者が斡旋してくれた、民宿「和楽」に1泊することにしまし、この宿に泊まった事が、その後の私の富士登山競走制覇に好影響をあたえたのは確かです。

 その理由は、この宿に、歴代優勝者の1人の北村泰一(きたむらたいち)さんが毎年泊まっていたからでした。
 
 31回大会に優勝していた北村さんは、それ以外の年も必ず10番以内に入っているという、抜群の強さと安定感をもっていました。

 ですから、この宿に泊まる他の選手からも尊敬されていて、みんな夕食の時に、北村さんの話を聞いて、翌日の大会で完走するための、秘訣を少しでも教えてもらおうと必死でした。

 私といえば、まだ富士登山競走の苛酷さも知らず、明日はやってやるぞという、自信が湧いてきたの、おぼえています。

 続く

2013年7月10日水曜日

富士山への道

  高校を卒業して、国鉄の静岡鉄道管理局に就職しました、沼津駅に配属されて、職種は貨物列車の連結手で、朝8時位から、翌朝の8時までの一昼夜勤務でした。

 走る事が、大好きで、よく鉄道用の足袋をはいたまま、仕事のあいまに、駅構内を走り回って、上司に怒られたものでした、あとスーパーマンになったつもりで、沼津駅発の御殿場線とよく競走したのを思い出します。

 休みの時などは、箱根山の外輪山の伊豆佐野の山に走りに行きました、その様な練習で、翌年の富士登山競走出場に備えました。

 当時の走力は10kmで、未公認ですが、35分15秒、11月23日の河口湖マラソンで初フルマラソンを完走、確か2時間45分54秒で45位でした。

 続く