様々な話が飛び交う中、ハッキリした事が、ひとつ分かりました、それは、その選手が失格になった理由でした。
当時の富士登山競走では、スタート前にゼッケンコールが行われていて、出走する前にゼッケンに主催者のスタンプを押してもらってから、スタート地点に並ぶ事になっていたのですが、その失格になった選手は、スタンプを押してもらわずに、スタートしたとの事でした。
あと、どうもその選手はノルディックスキーの選手らしいと云う事でした。
ようやくその選手の事が、大会から約1ヶ月経った頃に発行された月間ランナーズ10月号に載りました。
私の記憶で、小さなゴール写真でしたが青空のなか、異常に太い腿が印象的に残っています。
そして、その写真の下にコメントが載っていました、「せっかくの大会新記録2時間39分30秒、佐々木一成選手」
びっくりしました、あの武井さんの大会記録を約5分短縮していたのです。
何度も、何度もそのページを見ました、何度も見ているうちに、絶対に、この佐々木選手に勝ちたい、そして私も大会新記録を出して富士登山競走で優勝したいという気になったのです。
続く
2013年8月16日金曜日
2013年8月6日火曜日
富士山への道
第38回富士登山競走、この大会は色んなことが起きたので、すごく印象に残っています。
まずは、私の成績はというと、前年13位になり今年こそ優勝するぞと気持ちの面では、かなり強いものをもって望んだのですが、7合目位から体に力が入らなくなり、八合目の山小屋の元祖室でリタイアしてしまったのでした。
不振の原因は、また貧血になってしまったからでした、本当に悔しくて、家に帰って泣きました。
この大会の優勝者は、千野香(ちのかおる)さんでした、タイムは2時間48分20秒でした、ところが、あとで情報が入ってきて、その千野さんより、かなり速くゴールした選手がいたのに、その人は失格になったというのです。
しかも、その選手が出したタイムは、過去誰が挑戦しても破れなかった武井農(たけいあつし)さんの大会記録2時間44分23秒をかなり上回っていたというのです。
続く
まずは、私の成績はというと、前年13位になり今年こそ優勝するぞと気持ちの面では、かなり強いものをもって望んだのですが、7合目位から体に力が入らなくなり、八合目の山小屋の元祖室でリタイアしてしまったのでした。
不振の原因は、また貧血になってしまったからでした、本当に悔しくて、家に帰って泣きました。
この大会の優勝者は、千野香(ちのかおる)さんでした、タイムは2時間48分20秒でした、ところが、あとで情報が入ってきて、その千野さんより、かなり速くゴールした選手がいたのに、その人は失格になったというのです。
しかも、その選手が出したタイムは、過去誰が挑戦しても破れなかった武井農(たけいあつし)さんの大会記録2時間44分23秒をかなり上回っていたというのです。
続く
2013年8月5日月曜日
富士山への道
第37回富士登山競走、長年苦しんでいた、貧血が改善されて、望んだ大会でした、富士山での練習は殆どせずに、ホームコースの箱根山の外輪山である、伊豆佐野の山で練習を積んで臨みました。
この大会で、やっと初参加の時のゴールタイムを更新する、3時間7分台で13位になれました、うれしかったですね、貧血を治せばまだまだいけると思いました。
この時、優勝をかざったのが、北村さんでした、タイムは2時間50分6秒で2度目の優勝、しかもこの時41歳最年長の記録です。
来年は私が必ず勝つ、表彰式の北村さんを見てそう思いました。
続く
この大会で、やっと初参加の時のゴールタイムを更新する、3時間7分台で13位になれました、うれしかったですね、貧血を治せばまだまだいけると思いました。
この時、優勝をかざったのが、北村さんでした、タイムは2時間50分6秒で2度目の優勝、しかもこの時41歳最年長の記録です。
来年は私が必ず勝つ、表彰式の北村さんを見てそう思いました。
続く
2013年8月4日日曜日
富士山への道
北村さんは、いつも上位に入っていたので、いち早く富士山頂から下山していて、民宿和楽で風呂に入って汗を流して、表彰式が始まるまで、時間があるので仮眠をしているのを、私はよく見ていました。
その姿を見て、本当にこの人は、富士登山競走そのものだなと、何度か感じたのを覚えています。「カッコよかった」
表彰式が市役所で行われるので、見に行きました、優勝した上原子選手が、もの凄く輝いていましたが、それにもまして、私がびっくりしたのが、優勝者には、内閣総理大臣の大きな賞状とトロフィーが貰えることでした。
何としてでも、あの賞状を貰いたいなと、心に刻みました。
しかし、それから1984年の37回大会までは、貧血になってしまったこともあり、よい成績を収めることができませんでした、苦しく長い時期でした。
続く
その姿を見て、本当にこの人は、富士登山競走そのものだなと、何度か感じたのを覚えています。「カッコよかった」
表彰式が市役所で行われるので、見に行きました、優勝した上原子選手が、もの凄く輝いていましたが、それにもまして、私がびっくりしたのが、優勝者には、内閣総理大臣の大きな賞状とトロフィーが貰えることでした。
何としてでも、あの賞状を貰いたいなと、心に刻みました。
しかし、それから1984年の37回大会までは、貧血になってしまったこともあり、よい成績を収めることができませんでした、苦しく長い時期でした。
続く
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